『巡礼ツーリズムの民族誌:消費される宗教経験』(門田岳久著、森話社、2013年)
日時: 2014 年 6月 7日(土) 14時~ 17 時30分(予定)
*筑波人類学研究会 第15 回定例会と合同
会場: 筑波大学 総合研究棟(本部棟向い)A111
14:00-15:50 <筑波人類学研究会 第 15回定例会>
14:00 -14:50 研究発表
- 発表:藤井 真一 (大阪大学大学院・人間科学研究科)
- 「紛争の周縁、生成される平和―ソロモン諸島ガダルカナル島における日常性の考察」
- 平和の人類学は戦争(紛争)の不在・
欠如によって平和を定義する従来のやり方に代えて、「 他者と共に生きられる関係性をつくっていくこと」あるいは「 人々の実践を通して生み出されていく」 ものとして積極的に定義できる平和を考えている(平和生成論)。 この考え方は戦争と平和とを背反的に捉えるものではないため、「 戦争の最中の平和」をも射程に収めることができる。
「民族紛争」のような暴力行為や衝突などは人類学者のみならず外部観察者の目 を惹く現象である。しかし、 紛争に着眼したとき周辺視野に像を結んでいるはずの平和的な日常 生活はあまり省みられない。本報告では、ソロモン諸島の「 民族紛争」を事例に平和という課題へ切り込んでみたい。 不断に平和を生成し続ける駆動力として贈与行為を位置づけ、( 1)平和の動態、(2)平和と紛争の連続性、(3) 両者の動態的な関係を考察する。
- コメンテータ:奈良雅史(日本学術振興会特別研究員PD/ 国立民族学博物館)
16:00-17:30 <FACT 08 : 合評会>
16:00 -16:30 著者解題( 30 分)
- 著者:門田岳久(立教大学・観光学部)
パッケージツアーに取り込まれ、商品化した聖地巡礼は、宗教の衰退した姿でしかないの
か?四国遍路の巡礼バスツアーへの参与観察から、「現代の/我々の」宗教的な営みが
持つ可能性を探る(出版社HPより)
16: 30- 17: 30 コメント+質疑応答
- コメンテ ータ①:山中 弘 (筑波大人文社会系教授、宗教学・宗教社会学)
- コメンテータ②:上形智香(筑波大学大学院人文社会科学研究科博士前期課程、民俗学)
18:00 - 懇親会
研究会報告
まず、筑波人類学研究会の定例会として、藤井真一氏(大阪大学大学院博士後期過程)により、「紛争の周縁、生成される平和――ソロモン諸島ガダルカナル島における日常性の考察」と題した研究発表がなされた。
藤井氏は、2009年以来、ソロモン諸島ガダルカナル島を対象として、民族紛争後の平和構築の過程に関する現地調査を断続的に実施してきた研究者である。発表の冒頭では、「平和の人類学」の学説史的背景と、小田博志らが提唱し藤井氏の共鳴する、「平和生成論」の方法論的枠組みが示された。その後、ソロモン諸島において1990年代末から2000年代初頭にかけて発生したとされる「エスニック・テンション」に際して、多言語状況下において顕在化した「民族の差異」のあり方と、当時ガダルカナル島北東部で生活していた人々の紛争下における生存戦略と生活実態について詳細な報告がなされた。藤井氏はその上で、生活上の対立関係を契機として贈与交換が行われることに着目し、民族紛争後の平和構築を含む平和状態の創出・維持・再生産のメカニズムを、贈与財の生産過程とその授受の具体的なあり方を手がかりとして理解することを目指すという視座を提示した。
藤井氏の発表に対し、コメンテーターの奈良雅史氏(日本学術振興会特別研究員PD/国立民族学博物館)は、紛争下における生活実態に着目することで紛争状態と平和状態を対立する二項としてではなく連続的な事象として捉えようとする試みを評価した上で、次のように指摘した。すなわち、藤井氏の主張するように平和が単に紛争の欠如であるに留まらず、平和状態とは暴力の発現を抑制する動態的な過程を内包するものであり、紛争状態とは抑制されていた緊張関係が顕在化していく過程であるとすれば、紛争状態もまた単なる平和状態の欠落ではなく、そこには社会関係を構築し平和へと向かう契機が孕まれているのではないか、という問いかけがなされた。質疑の中では、暴力を抑制する機制のみならず平和状態から暴力が生起する契機についても検討する必要性や、代表的な贈与財である貝貨と近代貨幣との関わりを整理する必要性などが指摘された。また、会場から「エスニック・テンション」以後のソロモン諸島において行われてきた和解のための賠償や贈与交換に政府などの公的機関が深く関与してきた事実が指摘され、現代国家的な脈絡とミクロな生活実態の双方に目を配った議論を行うべきであるとのコメントがなされた。発表時間の関係上、こうした論点について十分に議論を深めることができなかったのは残念であった。
(文責:佐本英規)
筑波人類学研究会第15回定例会に引き続き、門田岳久著『巡礼ツーリズムの民族誌――消費される宗教経験』(2013年、森話社)の公開合評会が行われた。
まず著者の門田岳久氏(立教大学観光学部)から「自著省察」と題して簡単な解説が行われた。研究を始めた当初思い描いていた民俗学への期待と、その後痛感した現実。しかし方法論を模索するなかで、ナラティブアプローチや世俗化論と再聖化論、消費社会論、身体論等、既存の民俗学・文化人類学の枠に囚われずに試行錯誤した結果、本書が出来上がったことが述べられた。「佐渡」というフィールドの魅力、そして本書を書き上げたいま感じている民俗学への可能性についても語られた。氏が思う民俗学のもつ魅力とは、自社会研究の人類学との融合や、社会学・生活史研究・宗教学等とのハブとなる可能性をもっていることで、それは、Reflexive Ethnographyとしての民俗学ともいえるものだという。また、フィールドで出会う人を「対象」として突き放すことができない、民俗学者のもつ「ナイーブさ」も魅力的であり、大事にしたいところだと述べられた。
次に2人のコメンテーターからコメントが述べられた。まず山中弘氏(筑波大学教授・宗教学)は、本書がエスノグラフィーという枠に収まらず、多様な学問領域を縦横に駆使して書かれた、今日的問題意識と広い射程をもった挑戦的著作であると評価した。巡礼ツーリズムを通じた宗教的経験を分析することによって、「宗教的なるもの」と「民俗的なるもの」の現代的位相を検討していると述べた。それは、日常生活に存在する宗教のあり方と、それを論じる宗教研究者の研究態度を批判的に論じていると指摘し、宗教研究者としての立場から以下の点を質問された。まず、本書で扱う「巡礼ツーリズム」という概念が四国遍路に限定されたものなのか、それとも宗教の消費化、資源化といった「経験消費」の議論まで展開できるものなのか。2点目は、第8章で扱った「とちんぼ」の消失と巡礼経験を通じて語られる不思議な体験の間に関連があるのではないかということ。3点目は、結論で述べられる「浅い信仰」「それなりの信仰」と、それに対して宗教研究に存在する信仰に対する「ロマン主義的な語り」についてである。
また、上形智香氏(筑波大学大学院修士課程・民俗学)は民俗学を専攻する大学院生の立場から次のようなコメントを述べた。まず、宗教的な行為を「消費」との関連から捉える視点は、自身の研究テーマとも関心が近く、これから修士論文を書く上で参考にしたいと述べられた。くわえて、調査時のインフォーマントとの距離の取り方について、ナラティブアプローチを試みて成功した点と失敗した点、先行研究のなかで民俗学の信仰研究をあまり取り上げていないのはなぜか、といったことについて質問がなされた。
最後にフロアを交えてディスカッションが行われた。フロアからは、巡礼ツーリズムと観光、およびそこに見るロマン主義的な反応について、またタイトルを「民族誌」としたことのねらい、などについて幾つもの質問・コメントが出され、登壇者とフロアのあいだで活発に議論がなされた。
(文責:松岡薫)
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